ファラデーの伝- 晩年・終焉 -

五十三、晩年

 一八五八年にはアルバート親王の提議で、ヴィクトリア女王はロンドン郊外ハンプトンコートの離宮の近くで緑の野原の見える小さな一邸をファラデーに賜わった。ファラデーは初めには御受けを躊躇した。これは家の修理等に金がかかりはせぬかと気づいたためであった。これを聴かれて、女王は家の内外を全部修理された。そこでファラデーは移転した。しかし、王立協会の室はまだそのまま占領しておって、時々やって来た。

 クリスマスの講演も一八六〇年のが最終となり、ファラデーの健康は段々と衰えて、翌年十月には王立協会の教授もやめて、単に管理人となった。時に七十歳である。このとき、ファラデーが王立協会の幹事に送った手紙には、

「一八一三年に協会に入ってから今や四十九年になる。その間、サー・デビーと大陸に旅行したちょっとの間が不在であっただけで、引きつづき永々(ながなが)御世話になりました。その間、貴下の御親切により、また協会の御蔭によって、幸福に暮せましたので、私はまず第一に神様に謝し、次には貴下並びに貴下の前任者に厚く御礼を申し上げねばならぬ。自分の生涯は幸福であり、また自分の希望通りであった。それゆえ、協会へも相当に御礼をなし、科学にも相当の効果を収めようと心がけておりました。が、初めの中は準備時代であり、思うままにならぬ中に、もはや老衰の境に入りました。」

というようなことが書いてある。

 翌一八六二年三月十二日が実にこの大研究家の最終の研究日であった。またその年の六月二十日が金曜講演の最後であった。その時の演題はジーメンスのガス炉というのであったが、さすがのファラデーも力の弱ったことが、ありありと見えて、いかにも悲しげに満ちておった。ファラデー自身も、これが最後の講演だと、心密かに期していたそうである。この後も、人のする講演を聴きに行ったことはある。翌一八六三年にはロンドン大学の評議員をやめ同六四年には教会の長老をやめ、六五年には王立協会の管理人もやめて、長らく棲んでいた部屋も返してしまい、実験室も片づけた。この時七十四歳。後任にはチンダルがなった。もっともチンダルは既に一八五四年から物理学の教授にはなっておった。

 それでも、まだ灯台等の調査は止めずにやっておったが、トリニテー・ハウスは商務省とも相談の上、この調査はやめても、年二百ポンドの俸給はそのままという希望で、サー・フレデリック・アローが使いにやって来た。アローは口を酸(すっぱ)くして、いろいろ説いたが、どうしてもファラデーに俸給を受け取らせることが出来なかった。ファラデーは片手にサー・アローの手を、片手にチンダルの手を取って、全部をチンダルに譲ることにした。

五十四、終焉

 ファラデーの心身は次第に衰弱して来た。若い時分から悪かった記憶は著しく悪るくなり、他の感覚もまた鈍って来、一八六五年から六六年と段々にひどくなるばかりで、細君と姪のジェン・バーナードとが親切に介抱しておった。後には、自分で自由に動けないようになり、それに知覚も全く魯鈍になって耄碌し、何事をも言わず、何事にも注意しないで、ただ椅子によりかかっていた。西向きの窓の所で、ぼんやりと沈み行く夕日を眺めていることがよくあった。ある日、細君が空に美しい虹が見えると言ったら、その時ばかりは、残りの雨の降りかかるのもかまわず、窓から顔をさし出して、嬉しそうに虹を眺めながら、「神様は天に善行の証(あか)しを示した」といった。

 終に一八六七年八月二十五日に、安楽椅子によりかかったまま、何の苦しみもなく眠るがごとくこの世を去った。遺志により、葬式は極めて簡素に行われ、また彼の属していた教会の習慣により、ごく静粛に、親族だけが集って、ハイゲートの墓地に葬った。丁度、夏の暑い盛りであったので、友人達もロンドン近くにいる者は少なく、ただグラハム教授外一、二人会葬したばかりであった。

 墓標にも簡単に、

一七九一年九月二十二日生れ

ミケル・ファラデー

一八六七年八月二十五日死す

 日輪が静に地平線より落ち行きて、始めて人の心に沈み行く日の光の名残が惜しまれる。せめて後の世に何なりと記念の物を残そうということが心に浮ぶ。

 ファラデーが死んでから、記念のため化学会では、「ファラデー講師」なるものをつくり、パリにはファラデー町が出来、ロンドンにもファラデー学会が出来た。グラッドストーンは伝を書いた。チンダルも伝を書いた。またベンス・ジョンスは手紙を集めて出版し、その後シルベナス・トンプソンも伝を書いた。

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入力:松本吉彦、松本庄八 校正:小林繁雄

このファイルは、青空文庫さんで作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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